他人を見るとき・自分が見られるとき、
絶対に何か考えています。
何かで相手を判断し、
自分のどこかを判断されていると考えています。
疑問に感じるのは、
「なぜ見るときに判断をするのか」です。
習慣なのでしょうか、文化なのでしょうか、
周りがしているからでしょうか。
臨床看護師をしていた時、看護教員をしていた時、
何かと判断しなければなりませんでした。
患者さんの状態を観察して判断しなければ、
何が必要なケアかわかりません。
試験の解答、課題レポート、看護技術についてなど。
判断しなければ、成績が出せませんし、
学生の学習状態がわかりません。
ただ、判断すれば良いことです。
ですが、判断するのに関係ないことを
考えていることが多かったです。
患者さんの状態を判断する時、
「大げさ」「いつも言ってる」など
普段のくせを考えながら観察することがありました。
試験の採点などの時も、
「この学生は、いつも失敗してる」「あまり喋らない」など、
採点に必要ないことを考えていることがありました。
ただ、患者さんを観察すればいいだけなのに、
学生の答の正誤を確認すればいいだけなのに、
余分な情報を勝手に付け足していました。
自分が見られるときも、勝手に相手が思っていると考えます。
「来ている服がいつも同じ」
「太ってる」
「仕事をしてない」など、
勝手に相手が自分のことを意識していると
思って接しています。
ただ見ているだけですし、見られているだけです。
余分な考えや勝手な想像が加わると、
適切な判断はできなくなります。
仕事だけでなくプライベートでも同じです。
「こういうこと言ったら相手にどう思われるだろう」
「この服だとだらしないと思われる」と
気にしながら他人と接すると、
何を自分が伝えたいのか、相手が何を言いたいのか、
ぼんやりします。
「自分の体に自分がいながら世界を見る」
「『みる』こと、そこから『わかる』こと」など、
聞いただけではわかりません。
ですが、今までしたことがない体験ができそうです。
余計なことを考えず、ただ見ることから何がわかるのか、
楽しみなワークショップです。
peacefully.